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お鯉さんの街・富田町
お鯉さんは、明治四十年四月二七日に多田仙次郎(藍香、東洋亭金波)家の三人姉妹の末っ子として生まれた。
本名「小餘綾」は、歌枕の「こゆるぎの磯」にちなみ、また、磯=五十にかかる歌枕でもある。
父・金波が五十路を越えた時の娘であることから命名された。
三味線を習い始めたのは小学校入学前の時。小学三年、数えで十歳の折、富街芸妓衆の清元や三味線の指導にあたっていた師匠清元延喜久(高橋シゲ)に弟子入りし、本格的に三味線を修行する。
なお清元延喜久は徳島最後の粋人と呼ばれた林鼓浪の内妻となった人でもある。
新町小学校卒業後、芸妓の道を志し、大正九年芸妓「うた丸」としてお披露目。一時検番を離れた後、大正十二年「こゆるぎ」名で自前芸者となる。
その後、「お鯉」に改名、売れっ子となった。
さて、富田町は富街と呼ばれ、古くから藍の顧客をもてなす花街として発展、明治になって富田街芸妓検番が設けられ繁栄した。
往事の雰囲気が漂うこの街の風景の中に、お鯉さんの姿も見かけられた。
□昭和30年の富田町の風景
かってはお座敷へ急ぐ芸妓の姿がよく見かけられた。
(撮影 津田幸好氏)
□現在の富田町界隈
お鯉さんと播半の女将乾御代子氏
谷崎潤一郎の名『細雪』に「芝居は鴈治郎、料理は播半かつるや」と記された老舗の料亭が、大阪心斎橋にあった「播半」。その先代の女将が乾御代子氏(一八九六〜一九八七)である。
昭和七年頃、大阪放送局のラジオ出演の折、お鯉さんが播半に御代子氏を訪ね、また昭和九年頃、播半で行われた徳島県人会の宴席にお鯉さんが呼ばれたことなどが縁となって、御代子氏とお鯉さんとの変わることのない長く厚い親交が始まった。
御代子氏の紹介で月に一度、播半に滞在しながら、小唄の稽古に打ち込むため、昭和十七年まで、お鯉さんは大阪通いを続けた。
また、お鯉さんが大阪のお茶屋から引き抜き話を持ち掛けられたこともあった。その時、「徳島の桜は、やっぱり徳島で咲くのが一番ええのやないかしら」と親身に助言したのも御代子氏であった。
□お鯉さんの写真
ワザと帯が目立つようなポーズが可愛らしいお鯉さんの写真。これは初めて島田の鬘をつくったときの記念撮影。
写っている帯は御代子氏から頂いたもので、浮世絵美人があしらわれていて豪華である。
御代子氏が、自分と揃いで作った一本を、お鯉さんに贈った。
□帯の写真
□稽古三味線
お鯉さんが愛用している稽古三味線は、六十年ほど前に御代子氏から贈られた品である。
「元は白っぽかった三味線も使い込まれるうちに飴色になって」しまったという。
□徳利
「言問」「お鯉」の銘を入れた清水焼の徳利。料亭言問で使用されたが、愛らしいデザインのため「こっそりコートに忍ばせたお客さんもおりました」。
播半の裏手の山に開かれた窯場で、特別に十本焼かれたもの。
徳島市立徳島城博物館 編集・発行『お鯉さんと阿波踊り』(2001年)より転載
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