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■お鯉さんの図像学

   第二部 お鯉さんをめぐる芸術家たち(T)


伊原宇三郎〈1894〜1976〉

「乗馬してた時分ですから、27、8歳のことと思います。
伊原先生は、乗馬に因んで竹で拵えた馬の絵を、それはもう可愛いに描いてくださいました。」


伊原宇三郎「東洋亭金歯・お鯉小画伝帳」  お鯉さんと画人・文人との交流を語り始めるには、まずは徳島出身の洋画家伊原宇三郎が記した「金波・お鯉小伝画帳」の紹介から始めるのが良い。 伊原がお鯉さんに捧げた、この一篇のエッセーは、お鯉さんの父・東洋亭金波へのオマージュであるとともに、お鯉さんという個性がいかなる血と環境の中で、「芸術的素質、優れた感受性、典雅なボン・サンス、煥発する才気、スケールの大」をつくりあげていったのかが理解されるのである。

 この画帳が書かれたきっかけは、昭和八、九年頃に開かれた徳島中学の同窓会に、帰郷した伊原が出席。偕楽園での二次会の宴席にお鯉さんが呼ばれ同席していたことから始まる。 伊原が語った思い出が父金波の話に及んだことから、その娘であるお鯉さんとの初めての出会いとなり、そこで伊原は、お鯉さんの持参した画帳を宿舎に持ち帰って、入念に描き贈ってくれたのだという。 「乗馬してた時分ですから、二十七、八歳頃のことと思います。伊原先生は、乗馬に因んで竹で拵えた馬の絵を、それはもう可愛いに描いてくださいました」。その当時、お鯉さんは小さな画帳(朱印帳)を三味線箱の底にソッと忍ばせていたという。 美術が好きなお鯉さんは、画人・文人のお座敷に招かれること多く、そんな折、記念に一筆頂いたりしていたのである。
「いきなり書いてくれなんて言うのン失礼ですから」と、お鯉さんはいたずらっぽい笑みを浮かべながら、「今思うたら、コツがいったんでしょうなァ」。
 残念ながらその時の画帳は昭和二〇年の徳島大空襲で失われてしまった。現在お鯉さんが架蔵している画帳には昭和三六年春の年期がある。これは、前年の昭和三五年に旅館として改装した言問を訪ねた伊原が改めて贈ったものなのである。 副本として小本も描き添え、お鯉さんは現在合わせて2帖を愛蔵している。

□伊原宇三郎「東洋亭金歯・お鯉小画伝帳」
(上)大本表紙24.2×17.9
(下)小本表紙12.7×9.4


小本大本 □小本(→全体図へ

□大本(→全体図へ

[翻刻]「東洋亭金波・お鯉小伝(仮題)」
私が大道三丁目に住んでいた六七才の頃、二丁目寄りの二三軒隣に金波さんの家があった。道路から青竹の手すり越しに、いきなり広い板敷の仕事場になっていて、そこでいつも美男巨躯の金波さんが、大どかな風貌に金歯をちらつかせながら、大小さまヾのチラシをかいていた。手すりは私の背より高かったから、私はいつも太い青竹にぶら下って、喰い入るようにそれを見ていた。
お鯉さんがこゝで生れた頃のことは知らないが、私の背丈が青竹よりずっと高くなっても、私の大道通いは續けられたし、金波さんが両国橋筋へ移って後も変らなかった。金波さんは文字もうまかったが、特に画は腕達者で、つとに一家の風格をなしていた。それを、無垢の白紙の年頃から、飽かずに眺めていたのだから、強い感銘の残らぬ筈はない。私が画家になった幾つもの素因の中で、先ず最初の種子を私に蒔いてくれた金波さんの存在は極めて大きい。
また金波さんには書画の技の外に、卓抜な藝能人としての一面がある。濱伊が親しい親戚で、始終遊びに行っていた関係から、いろんな宴会をかいま見る機会があったりして、私は金波さんの巧妙な話術や奇術、曲藝、手品を屡々見聞きした。 明治の末期のことであるから、素より「漫談」とか「藝能」などいう言葉はなかったが、金波さんのそれは明らかに後世藝能界でそれヾ一つのジャンルとして發達した本格的なものである。而も初期の司郎、夢声、金梧郎を思うとき、当時の金波の藝は一歩も譲っていなかったし、たった一人で、こんなにも廣い藝域を身につけている人は今以て現れていない。 返すヾも惜しいと思うのは、先覚者金波は二十年か三十年早く生れ過ぎたことである。お鯉さんについては、多く書くだけ野暮であろう。たゞ然し、かつて名妓の譽を恣にし、歌手としては日本の第一人者、今は各方面に大御所的貫祿を示していること、素よりお鯉さんの天分や努力は言うまでもないが、同時に父子二代に亘る血を思わない訳には行かない。 パイオニア金波は不幸不發に終ったが、その大事なものがそっくりお鯉さんに傳わってくれた。あの藝術的素質、優れた感受性、典雅なボン・サンス煥發する才氣、スケールの大、これらは総て父の血の見事な開花ではあるまいか。金波さんは地下でもう永い間、あの童顔の目を細めていることであろう。唯一つ、私の最初の師匠の娘であるのに、画をかゝぬことだけが璧に瑾、不肖の子である。
=ずっと前に、お鯉さんご自慢の大福帳に、これと同じようなことを書いたことがある。それを戦災でなくしたからと、請われて今度これを書いたが、それから廿六七年も經つのに、不思議とその時の文章をまざヾと思い出した。=

  昭和卅六年春       伊原宇三郎(印)(印)

[解題]
 大本は片面画帖仕立。小本は標準形折本であるが、料紙2枚を重ねた作りとなっている。大本小本とも市販されていたものに書き込んでおり、裂表紙に題簽がついた作りとなっている。しかし書名は記されないままとなっているため、仮題として「東洋亭金波・お鯉小伝画帖」を掲げておく。 大本には伊原の「金波・お鯉小伝」に続けて「昭和辛丑夏八月廿三日/阿波踊見学」の年期をもつ小説家今東光の書「一日清閑一日福」を収める。小本には人間国宝桐本紋十郎他の人々が揮毫しており、中でも今東光が「芸能之家」と記しているのは伊原の本文に照応する句を選び、お鯉さんに献じたものと思われる。 なお、ここに翻刻した「金波・お鯉小伝」は大本である。以下、参考までに大本・小本の校異を掲げておきたい。まず翻刻24行目「二代に亘る」が「二代に繋がる」、27行目「これらは総て父の血の見事な開花」が「これらは見事な父の血の開花」となり、大本の「ずっと前に」以下記されている奥書が、小本には欠如したまま「昭和卅六年春 伊原宇三郎(印)」署名が続く。 その他は濁点や漢字表記の相違、「 」の有無などであり、本文の理解の上で支障はないものと思われるので、ここには略す。


多田 藍香〈1858〜1928〉

「24貫(約90kg」もあったから」とお鯉さんは父の印象を語る。
「まるで相撲取か布袋さんみたいでした」。
その大柄な体を屈めながら、絵の具をすり鉢ですってた父の姿が今でも目に浮かぶ。
誰よりも父が好きであった幼いお鯉さんは、いつもその脇で「ひっついてた」という。


多田藍香  「二四貫(約96kg)もあったから」とお鯉さんは父の印象を語る。「まるで相撲取か布袋さんみたいでした」。その大柄な体を屈めながら、絵の具をすり鉢ですってた父の姿が今でも目に浮かぶ。誰よりも父が好きであった幼いお鯉さんは、いつもその脇で「ひっついていた」という。 しばらくして大きな筆を一気呵成に振るいながら、金波が描き上げていくのは「ビラ絵」。 この頃にはハレの場を飾るためのビラ絵(祭礼や開店祝い、あるいは徳島ならば人形芝居の舞台脇に貼り出される鯛や牡丹などを描いた祝儀用の目録絵)や「かけこし行灯」(祭、縁日で社寺や家々の門口に灯された絵行灯)の行灯絵、あるいは頼まれれば大福帳の表書きなど代筆も手掛け、生業としていた。

 お鯉さんの父・多田仙次郎。藍香、また東洋亭金波と号した。徳島藩に仕えた武家の出である金波は、幼い時分「刀を一本腰に指した恰好で、富田浜にあった魚市場などで遊び、そこで魚をジッと見ていた」とは、藍香の母つまりお鯉さんにとっては祖母にあたる千代が、お鯉さんによく語ってきかせてくれた昔話。 画人としてのモノを観察する目はこの頃から養われていたのであろうか。

 「こいさん、行っといで、と父に言われへーィって、よくお遣いに行かされて」とお鯉さんは懐かしそうに言う。「いつも金波はん、金波はんって賑やかで」。狂歌や俳句、川柳や短歌など幅広くこなした金波は交際範囲も広く、末娘のお鯉さんはいろいろな友人、隣近所に巻紙やら帳面をもってよく走らされた。 「出入りも多く、家族でもないのに一日中家の中で用もなく座ってるお人なんかがいました」と笑う。また話術や奇術も得意で、宴席や小学校に出向き興行するなど、まことに多才で、柔軟な発想をする人物であった。

多田藍香《鳴門鯛図》 □多田藍香《鳴門鯛図》
紙本墨画淡彩  26.7×103.6
 お鯉さんはそんな父を偲び、父の描いた画をいくつか収集した。例えば、大正三年春の年期がある「鳴門鯛図」は、金波の描いていた「ビラ絵」などの吉祥画を彷彿とさせる作品である。「為播磨楼主」とあり、鳴門で播磨屋という旅館を開業した友人に贈ったものという。「倣大津絵図」は、大津の宿場沿いで江戸時代に描かれていた土産用の民画である大津絵に取材した作品。 右幅は鷹匠、鬼の念仏、槍持奴、藤娘、外法梯子剃、左幅は雷太鼓、座頭、釣鐘弁慶、矢の根五郎、瓢箪鯰で構成されており、幕末に流行したといわれる俗謡「大津絵節」の中に歌い込まれた十種の画題に則って制作されたことが推測される。速筆・略筆をもって風刺的・諧謔的な当世風画題を描いた大津絵に対し、藍香は共感を寄せていたという。 「大津絵は好きでしたョ、ちょっと一筆、と乞われた時には、大津絵なんかを、じき描いてました」とお鯉さんは証言する。もとより大津絵の画態に惹かれて制作された故に、やや藍香の本来的画質とは異なる風合いを持つようにも感じられるこの作品、「若い時分のもんではないでしょうか」とお鯉さんが推測するのも頷ける。 しかしこのような大津絵に通じるユーモアは、追儺の情景を扇面という限られた画面に手際よく纏めた「節分図」にもよく表れており、藍香の素質が奈辺にあったかを窺わせるものであろう。もちろん「竹梅図」のような、正統的文人画の風を漂わせる瓶花図も描いたとなれば、この画人の幅の広さが偲ばれる。明治二二年の徳島絵画学校の設立など画人としての業績も含め、その解明は今後の課題であろう。

多田藍香→各図拡大ページへ

多田藍香《倣大津絵図》多田藍香《竹梅図》 □多田藍香《倣大津絵図》
紙本著色  各123.3×43.6

□多田藍香《竹梅図》
紙本墨画淡彩  103.8×33.4
多田藍香《節分図》 □多田藍香《節分図》
紙本著色  20.3×45.8


菅 楯彦〈1878〜1963〉

昭和13年9月18日のこと。
お鯉さんが播半の一階の御代子氏の部屋で、
小唄のおさらいのため「紙治」を唄っていると、
二階でその声に聞き惚れていた一人の客がいる。
その客は仲居に紙と筆を持ってこさせると一枚の絵を描きあげ、
「これ、あげといて」とだけ告げて、そのまま帰っていってしまった。


菅 楯彦  昭和十三年九月十八日のこと。お鯉さんが播半の一階の御代子氏の部屋で、小唄のおさらいのため「紙治」を唄っていると、二階でその声に聞き惚れていた一人の客がいる。その客は仲居に紙と筆を持ってこさせると一枚の絵を描きあげ、「これあげといて」とだけ告げて、そのまま帰っていってしまった。
 川のほとりに浮かべた舟の上、琵琶を弾くひとりの女性を描いたその絵には「尋声暗問弾者誰(声を尋ねてひそかに問う、弾くものは誰ぞと)」という中国唐代の詩人白居易の長詩「琵琶行」の一節が引かれている。

 その日、外出していた御代子氏が帰宅して、その絵を見るなり、「粋やわァ、菅先生。それにしてもお鯉さん、トクなこと」と告げたという。
 その客の名は菅楯彦。大阪画壇にあって情緒溢れる浪速風俗画・歴史画の泰斗として知られた。昭和三三年には日本画部門で初めての芸術院恩賜賞を受賞。昭和三七年には大阪市名誉市民となった画人である。この日は偶々、画友北野恒富との待ち合わせのため、播半で昼食を摂っていたのである。
 翌朝、お鯉さんは御代子氏と共に楯彦の自宅を訪ねた。「お菓子を持ってお礼に伺ったら、箱書まで認めて頂いて」、さらに「この話を聞いた播半出入りの表具屋が、表装をタダで引き受けてくれました」。

菅 楯彦(琵琶行)《琵琶行》箱書 □菅 楯彦(琵琶行)紙本墨画  23.0×33.7→拡大
□《琵琶行》箱書

 さて、これより二年後の昭和十五年五月のこと、「いたづら少年と美声の主」という記事が新聞を賑わした。「いたづら少年」とは、徳島市民病院産婦人科の医師、上道清一氏であり、大阪府会議員だった父、上道菊治のもとに、当時まだ無名であった楯彦が寄宿し画を修業していたことから、まだ子供だった清一氏は楯彦を「オッチャン」と呼び、なついていたのだという。
 一方「美声の主」はもちろんお鯉さん。スケッチ旅行のため徳島を訪れた楯彦が、上道氏と二十年振の再会を果たした折、「お鯉さんという妓が徳島にいないか、声のいい妓だったが」の一言から、これまた二年振の再会となったわけである。 新聞は、このうるわしき奇遇を、先述の播半でのエピソードなども交えながら紹介し、小松島町横須の万翠楼旅館に宿泊していた楯彦を二人が訪ねたことを報じている。

 二人の前で楯彦は還暦を越えた人とは思えぬ豊かな声で数詩を吟じ、得意の雅楽を舞ったと記事は結んでいる。
 「菅先生については、お仕舞いをなさる姿が印象に遺っています。背のスーッと伸びた大柄なボンさんという感じでした」とお鯉さんは語る。この後、楯彦とお鯉さんとの交遊は戦中戦後と途絶えることはなかった。 「古武士のようなその風采、その言葉つき、物の言ひぶり、趣味、学殖には何ともいへない味はいがあった」と評したのは楯彦と親しかった谷崎潤一郎である(ちなみに谷崎の『細雪』初版装丁を手掛けたのは楯彦である)。この言葉の通り、お鯉さんに対しても「いつもキチンとした方だった」という。手紙の遣り取りでも「一度も「お鯉」とは書かず、常に多田小餘綾様と書いてくださいました」。 お鯉さんがスダチはもちろん、若布や澤鹿、竹竹輪など徳島の名物を時候の挨拶に贈れば、必ず丁寧な礼状を返してくれた。

 さらに色紙や軸なども「菅先生は何気なしに贈ってくれたりしました」、料亭言問では「部屋ごとに菅先生のお軸掛けさせてもらって」。今もお鯉さんが愛蔵する楯彦の画からは、いわば二人の間で交わされた心の交流の軌跡が見えてくるのである。


新聞切抜 □小松島町横須の万翠楼旅館で再会した、
菅 楯彦、上道清一氏、お鯉さん(新聞切抜より)
お鯉さん宛 菅楯彦書簡 □お鯉さん宛 菅楯彦書簡
9月17日付  14.1×97.8→拡大

 昭和二七年五月十日付のお鯉さんに宛てた楯彦の書簡に「扇子と手ぬぐひの下画出来ました故、明早朝小包ニて御送り申ます。大延引ニて甚申わけ無ク」と見える。さらに「下画御一見被下し上、すぐニ御送り被下バ」楯彦の懇意にしている大阪の「みのや久保田興市」に扇子を依頼し「御問ニ合せ可申候」。 一方の手拭いは「高島屋美術部」へ送ってくれれば染めにまわしてくれるように連絡しておくことが述べられている。つづけて「扇子の図ハ在原業平が隅田川の渡し船にて、ことヽひの歌をよめる図」とあり、「かきそんじの方も仕上がってゐる事とて一しょニ封入」とある。 つまり、この時の作品が「隅田川」扇面であったことがわかり、現在もお鯉さんが架蔵している作品と照応するのである。後の十月二六日付書簡では「いつぞや画きました扇の画、扇やが上の方を餘けたち過ぎて、船頭さんの上の方がきゅう屈となり惜しいことであり」とも見える。 また「人物の目ハ版木が合ハぬ事が多き故、一枚ヽ皆私が筆でかきました」とも記されている。「言問」はいうまでもなくお鯉さんが女将となって開業した料亭にちなむものである。さらに遡れば叔母カツが経営していた店が「言問ぜんざい」。その名付け親は金波だった。 またお鯉さんが芸妓「こゆるぎ」名で自前芸者として一本立ちしたときの屋形の屋号が「言問」。その後、料亭から旅館、さらにその跡地に建てたビルもすべて「言問」であり、「伊勢物語」にちなむこの地名は殊の外お鯉さんと縁が深い。
 一方、手拭いの下絵についてもお鯉さんは大切に、これを保管している。


菅 楯彦《隅田川》 □菅 楯彦《隅田川》 紙本淡彩 22.0×48.5→拡大

「扇子と手ぬぐひの下画出来ました故、明早朝小包ニて御送り申ます。・・・
扇子の図ハ在原業平が隅田川の渡し船にて、ことヽひの歌をよめる図・・・」


《鯉図手拭》菅 楯彦《鯉》 手拭下絵 □《鯉図手拭》  98.5×36.5(左)
 さて、この扇面と手拭いの下絵、どちらを見ても楯彦のお鯉さんに対する理解の深さと、細やかな配慮の込められていることがわかる。 美的価値以上に、二人の交流の一端が窺える意味で貴重な作品なのである。


□菅 楯彦《鯉》 手拭下絵(右)
波間に踊り跳ねる鯉の絵を簡潔に描き、「眼如珍珠鱗似金時々動泡出還沈 為鯉女史」の字句を入れ「楯彦」の款印を添える。 まことに清々しいデザインといえよう。この下絵をもとに染められた手拭いは料亭言問を訪れた多くの客人に配られ、いたく喜ばれたという(なお掲載した写真の手拭い《鯉図手拭》は、同じ下絵を用いて近年作成されたもの)。


 お鯉さんが好きな作品に「紅葉」や「花見西行」がある。どちらも淡く優しい色彩で纏められた、小品ながら楯彦らしい情緒あふれる作品といえよう。こうした楯彦の画が、それぞれの季節に応じて掛け変えられ、言問の空間を彩っていたのである。


菅 楯彦《旭日蒼松》 □菅 楯彦《旭日蒼松》 絹本著色 42.0×52.0
 《旭日蒼松》も楯彦から贈られた作品。
 同じ画題の画は昭和二九年三月の名古屋美術倶楽部五〇周年記念現代諸大家新作大展覧会にも出品されているのが確認される。この画が正月に掛けられると、言問の広い床の間が一際映え、客人の目を引いた。 さらに昭和三二年新春の新聞に「初きえん女内閣」という読み物が掲載されている。なんとお鯉さんが首相に就任し、世相を切るという趣向。その記事の中にも正月の言問の床の間を飾る軸として「旭日蒼松」が登場しているのも興味深い。
菅 楯彦《紅葉》菅 楯彦《花見西行》 □菅 楯彦《紅葉》
紙本淡彩 26.6×23.7

□菅 楯彦《花見西行》
絹本淡彩 26.1×23.6

 さらに楯彦を通じて、他の作家の作品がお鯉さんに送り届けられたりもした。「旭」は同じ大阪画壇で活躍し、大正美術会の世話役も果たしていた岡本大更(一八七二〜一九四五)の作品に、楯彦が画賛として和歌を記したもの。 「禿」を描いた色紙も、やはり楯彦から頂いたというが、作者は生田花朝女(一八八九〜一九七八)。花朝は明治四五年、楯彦の内弟子となった女流画家であり、恒富にも学んでいる。大阪の女流画家を代表する一人である。
 なお、掲出の楯彦の写真は昭和二二年十月三十日付の楯彦書簡に「此頃三都文化人写真展と云ふのを、東京がすんで、今こちらの大丸でやってゐます。 引のバさぬ小さいのをくれましたので一寸入て置きました」とある写真。「このぢゞ文化人かしらん(中略)あわれんで被下」とのコメントが可笑しい。


お鯉さん宛て  菅楯彦書簡 □(左)お鯉さん宛て  菅楯彦書簡  13.9×9.0
「残暑甚しく候。御きけよろしく何よりニ存ます。御開業の由、御よろこび申上ます。私も不事ニ居ります。何れ後便ニ  八月三十日」

□(右)お鯉さん宛て  菅楯彦書簡  13.9×9.1
「過日淡路の会社の招待にて鳴戸観潮ニ行き、徳嶋へも参るつもりの処、福良ニ一泊、急用ニて帰りました。撫養の見へる所まで参りながら残念でありました」


菅 楯彦 色紙 □(上)菅 楯彦《天下太平》 紙本淡彩 色紙 27.1×24.2
□(右)菅 楯彦《丹波路ハ》 紙本淡彩 色紙 27.2×24.2
□(下)菅 楯彦《陽当たりの》 絹本著色 色紙 27.3×24.2

色紙や軸なども「菅先生は何気なしに贈ってくれたりしました」


岡本大更《旭》生田花朝女《禿》 □(左)岡本大更《旭》 絹本著色 48.0×57.0
□(右)生田花朝女《禿》 紙本著色 色紙 27.4×24.2

徳島市立徳島城博物館 編集・発行『お鯉さんと阿波踊り』(2001年)より転載

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