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■お鯉さんの図像学

   第二部 お鯉さんをめぐる芸術家たち(U)


吉井 勇〈一八八六〜一九六〇〉

昭和30年代ではなかったかと思います。
吉井先生が踊り見物にいらっしゃった際に、
親しく言問で書いてくださったもの


 伯爵家の次男に生まれ、北原白秋らとパンの会を結成。『スバル』創刊にも参加し、歌集『酒ほがひ』『祇園歌集』などで知られる歌人吉井勇。そんな吉井勇の書もお鯉さんはいくつか愛蔵している。
 「年のはしめに」と題された和歌「朝空といふ題の絵をなかめつる今年の春をすかしみにけり」

吉井勇《年のはしめに》 □吉井勇《年のはしめに》  紙本墨書  36.3×20.8

 吉井勇《年のはしめに》 は乾御代子氏から頂いたもの。破継の料紙が美しい。
 菅楯彦がお鯉さんに宛てた新年の挨拶状の中で言及している作品もある。「過日歌人吉井勇さんが書いてくれました歌懐紙一葉、前の御住居へ御送り申しましたが(中略)右ハ人のよく知つている祇園の歌であります」。 ここで「祇園の歌」とあるのは、祇園白川の巽橋の袂にある歌碑で有名な「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のなかるゝ」の和歌を毫したもの。


吉井勇《かにかくに》 □吉井勇《かにかくに》  紙本墨書  額装  27.8×40.0

 あるいは楯彦と勇との間にお鯉さんの話が出たのかもしれない。楯彦が仲介して贈られてきた興味深い作品である。
 もちろん、モラエスなどにも関心のあった勇は、度々徳島を訪れている。その中で阿波踊りについても次のような歌を詠んだ。「おのつから胸にときめきおほゆらし踊の波のうこくままに」【 】。


吉井勇《おのつから》 □吉井勇《おのつから》  紙本墨書  27.2×24.2

 この色紙は「昭和三十年代ではなかったかと思います。吉井先生が踊り見物にいらっしゃった際に、親しく言問で書いてくださったもの」とお鯉さんは語っている。
 なお楯彦の葉書の中には「両三日前上洛。谷崎さんに松本さださんにて御よバれして、吉井さんも一しょで」などと見えるのもあり、井上流の舞の名手として知られる松本佐多のところで遊興の時を過ごす近況を、親しくお鯉さんに書き送っている。 そこには「谷崎氏」と「吉井氏」、それと楯彦自身であろう、祇園を行き交う三つの影法師が、橋上で揺らめく姿を描き添えている。


お鯉さん宛て 菅楯彦書簡 □お鯉さん宛て  菅楯彦書簡  13.9×9.1

「両三日前上洛、谷崎さんに松本さださんにて御よバれして、吉井さんも一しょで、両氏の作詞にて手のつひたのを聞きました。 それから舞の手をつけた由」

 この葉書で確認するまでもなく、菅楯彦や谷崎潤一郎、吉井勇などは同じ交友圏・ネットワ−クに連なる仲間であった。 そうした風雅な交遊の傍らに(はるか徳島の地にいながらも)お鯉さんの姿があった、というのは些か言い過ぎであろうか。


土田麦僊〈一八八七〜一九三六〉

お鯉さんが麦僊と出逢ったのは、芸妓「こゆるぎ」の頃の若い時分。
通町の鶴亀旅館に逗留していた麦僊のお座敷に出ることになった。


(金魚)  お鯉さんが夏になると床に掛けるという小さな軸。ゆらゆらと尾びれを翻す愛らしい金魚が描かれている。この絵の作者は土田麦僊。京都画壇で活躍し、舞妓をモチーフとした絵は殊に有名である。「麦僊さんからいただいたこの絵と、よく似た金魚の絵が売られてました。 ただ違うのは水草をキチンと書き入れてたこと。代価をいただく分のサービスでしょう」と笑う。実際、この画と同じような金魚の図は他にもいくつか認められ、麦僊が好んで描いていたことが知れる。

 お鯉さんが麦僊と出遭ったのは、芸妓「こゆるぎ」の頃の若い時分。通町の鶴亀旅館に逗留していた麦僊のお座敷に出ることになった。「思い切って一筆頂戴したいって言ったんです。 そしたら、あくる日、あの子にあげといて、と持ってきてくれました」。スゴクうれしかったァ、とお鯉さんは顔をほころばせた。


棟方志巧〈一九〇三〜一九七五〉

「熱い燗がお好きな方でした」
お鯉さんは燗が冷めないように、いつも以上に気を配り、
志功のリクエストに応じて阿波風景やよしこのを唄った。


棟方志功を囲んで  料亭言問、その旧館の八畳間で撮影された一枚の記念写真がある。

□料亭言問にて  棟方志功を囲んで(→拡大
 前列左から3人目お鯉さん、4人目棟方志功
 お鯉さんの脇にいるのは棟方志功。背景には志功の描いた三枚の色紙が確認される。お鯉さんと志功との出会いについて述べる前に、まずは志功と徳島との関わりについて見ていくことにしよう。 昭和三一年の暮れ、十二月十五〜十七日の会期で「棟方志功芸業展」(徳島芸術鑑賞会主催)が徳島市憲法記念館で開催された。十六日夕方、展覧会に合わせ来徳した志功は、徳島市建設会館で開かれた座談会に出席。次のようなことを語っている。 「私が板画を始めたのは伊原宇三郎画伯にすすめられたのがキッカケです」、いっそ絵をやめて人のやらないものに手を出したら、との伊原の言葉が板画を始める契機になったという。 なお、この来徳で志功は『徳島新聞』夕刊に「歳末徳島」を五回連載(十二月十八日〜二八日)したり、貞光へ講演会に行ったりもしている。

 次いで昭和四五年八月には、万博ム−ドに湧く阿波踊りに招待され、「やっと念願果たせた/棟方さん大浮かれ」と『徳島新聞』でも報じられている。 「黒色の足駄、赤と白の鼻緒、それに足のつま先で立っている姿がいいですね(中略)今後の作品に阿波踊りが入ってくるのが当然であり、必然であると思います」。
 昭和四七年は「南海道棟方板画」準備のため、四月六日に徳島を訪問、翌七日初代天狗久の碑を訪れた後、高知へ向かった。 昭和四七年制作の「南海道棟方版画」は、翌年度安川電機カレンダーのための作品で、徳島を題材としたものに二月「天狗久彰碑の柵」、三月「阿波の木偶の柵」は中西仁智雄の『阿波の木偶』への感動、また「阿波おどりの柵」は一昨年の印象に拠って制作されたことはいうまでもあるまい。

 さて話を元に戻そう。恐らくは志功が言問の料亭を訪れたのは昭和三一年十二月の冬の晩のことである。宴会の二次会で立ち寄ったものという。「塩かれ声で、こんな分厚い眼鏡を掛けて」とお鯉さんは志功の風貌について語る。 志功はこの年のヴェネツィア・ビエンナーレで国際版画大賞、前年の昭和三十年にもサンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞していた。ようやくその芸業に対し国際的評価が与えられたのである。 「熱い燗がお好きな方でした」お鯉さんは燗が冷めないように、いつも以上に気を配り、志功のリクエストに応じて阿波風景やよしこのを唄った。宴席は大いに盛り上がった。頃合いを見て「先生一筆、って申し出てみたら「ヨシッ」って」。 志功はちゃぶ台スレスレに顔を近づけて、一気に、奔放に、お鯉さんのため三枚もの色紙を書き上げたという。
 肉筆作品(志功の、いわゆる「倭画」)になる「女人図」には「爲言問大主人」の為書と「花深処」の字句を添える。


棟方志功〈女人図〉 □棟方志功〈女人図〉  紙本墨書  色紙  27.2×24.2

あるいはこの芳醇で豊艶な女人にはお鯉さんの面影が重ねられていたかもしれない。「裸の女のひたいに丸い星をつければ仏になる」と語っていた志功にすれば、あたかもお鯉さんは妙なる音楽を奏する菩薩にも映ったのではなかろうか。 「わが胸の想ひのごとに舞いめぐる 土佐の白鷺 けわし しろさぎ」では、志功も酔いが回ったのか「土佐」の歌となっている。


棟方志功〈わが胸の〉 □棟方志功〈わが胸の〉  紙本墨書  色紙  27.2×24.2

もう一枚は躍り跳ねる鯉魚の図。余白には造形的な文字により、いろは歌をみっしりと書き込む。


吉井勇《おのつから》 □棟方志功〈躍鯉図〉  紙本墨書  色紙  27.2×24.2

志功の倭画には「御群鯉図」や「御躍鯉図」等、鯉魚をモチーフとしたものが数多い。拓摺の「夢応鯉魚版画柵」もある。しかし、お鯉さんとめぐりあったとき、志功はうれしくなったかもしれない。 鮮やかな墨色の、美しい躍鯉を捧げるに、お鯉さんほど相応しい人はいなかったであろうから。


林 鼓浪〈1887〜1965〉

放送局へ行くときでもお鯉さんたちは先に行き、
自動車が嫌いな鼓浪は一人歩いていった。
ちょうどテストの頃になって、たいていは高下駄を履いた鼓浪がヌッと顔を出す。
時には鉦を叩いたりもしてくれた。


 「普通のお人にはヘンコツで通していたようです」。鼓浪の印象についてお鯉さんは、こう切り出した。「しかし検番、芸妓を心から愛していました」。鼓浪、本名林宜一。画を森魚淵に学び、青年時代には芝居の脚本も書き、映画の弁士を務めたこともある。 諸芸に通じていた鼓浪は、やがて富田町検番で芸妓を指導。郷土史家としても活躍し、伝統芸能の振興に力を尽くした。しかしながら飾り気のないこの老人、周りの者は皆、林の「オッサン」と親しみを込めて呼んだ。 身の回りの世話をしたいと望む女性は徳島の色街に引きも切らず、皆が構ってくれた。とにかく鼓浪は女たちに愛されていた。どこか可愛げのある男だったのであろう。飯を喰わせてくれる家には困らなかった。(こいかさんのところにいたこともあった)。 富街を歩くうちに今日は此処、明日は、というように先々で食事を振る舞われる。居間に座る鼓浪の口許についた飯粒を優しく払ってやりながら座敷へ出ていく芸妓の姿も見かけられた。そうした鼓浪の姿は、すでに富田町の点景となって溶け込んでいたといえなくもない。

「阿波踊りよもやま話」「阿波踊りよもやま話」 □(左)「阿波踊りよもやま話」で対談する林鼓浪とお鯉さん(『徳島新聞』昭和30年8月13日)

□(右)放送局での記念撮影(手前一番右が林鼓浪、その左手がお鯉さん)

 お鯉さんにとっては師匠延喜久の内縁の夫であるばかりでなく、よしこのを始め多くの唄の作詞を手がけ、レコード収録にあたっては一緒に船に乗り、ついて来てくれたこともあった。出演料に関するやりとりを鼓浪が進めてくれたこともお鯉さんの印象に残っている。 その時の鼓浪はひたすら「徳島のためですから」と言い続けていたという。金など問題ではない、お鯉さんの唄のレコード化こそ徳島の文化を全国に示す良い機会になる、そんな確信が鼓浪にはあったのであろう。鼓浪の言葉にはそうした事業に携わることの自覚と誇りを示していたかのような響きがあった。
 放送局へ行くときでも鼓浪は随行してくれた。しかしその時でもお鯉さんたちは車で先に行き、自動車が嫌いな鼓浪は一人歩いていった。ちょうどテストの頃になって、和服に高下駄を履いた短身痩躯の鼓浪がヌッと顔を出す。時には鉦を叩いたりもしてくれた。
 「何やら賞をお貰いになってからは”オッサン“とは言いづろうて・・・みんな”鼓浪先生“と言うようになりました」。昭和四〇年十月に徳島市人間文化財に指定されたが、その年の十一月二五日、徳島最後の粋人は没した。

林 鼓浪原画《阿波踊古風俗》 □林 鼓浪原画《阿波踊古風俗》
絵はがき  14.2×9.0
徳島市立徳島城博物館蔵


林 鼓浪原画《阿波踊古風俗》

□(左)林鼓浪《両国橋で踊り見物》  紙本著色  38.2×29.0  徳島市立徳島城博物館蔵
□(中)林鼓浪《阿波踊団扇》  21.2×22.6  徳島市立徳島城博物館蔵
□(右)林鼓浪《阿波の踊子》  紙本著色  39.5×52.5  徳島市立徳島城博物館蔵

(阿波の踊子・阿波踊団扇・両国橋で踊り見物)拡大


おわりに

 本稿では、お鯉さんをめぐる図像論(第一部)と交友関係論(第二部)の一斑を論じてみた。 そこから浮かび上がってくるのは様々な人々が繋がる糸であり、その連なりが歴史を紡いでいるということの実感である。 しかしながら現実のお鯉さんを前にして、その肉声に耳を傾け会話を交わしていると、そうした人の流れにいつしか自分も加わっているような、そんな不思議な錯覚を覚えるのである。 (徳島市立徳島城博物館学芸員  小川 裕久)

徳島市立徳島城博物館 編集・発行『お鯉さんと阿波踊り』(2001年)より転載

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