伊原宇三郎「東洋亭金歯・お鯉小画伝帳」小本


[翻刻]「東洋亭金波・お鯉小伝(仮題)」
私が大道三丁目に住んでいた六七才の頃、二丁目寄りの二三軒隣に金波さんの家があった。道路から青竹の手すり越しに、いきなり広い板敷の仕事場になっていて、そこでいつも美男巨躯の金波さんが、大どかな風貌に金歯をちらつかせながら、大小さまヾのチラシをかいていた。
手すりは私の背より高かったから、私はいつも太い青竹にぶら下って、喰い入るようにそれを見ていた。
お鯉さんがこゝで生れた頃のことは知らないが、私の背丈が青竹よりずっと高くなっても、私の大道通いは續けられたし、金波さんが両国橋筋へ移って後も変らなかった。
金波さんは文字もうまかったが、特に画は腕達者で、つとに一家の風格をなしていた。それを、無垢の白紙の年頃から、飽かずに眺めていたのだから、強い感銘の残らぬ筈はない。
私が画家になった幾つもの素因の中で、先ず最初の種子を私に蒔いてくれた金波さんの存在は極めて大きい。
また金波さんには書画の技の外に、卓抜な藝能人としての一面がある。濱伊が親しい親戚で、始終遊びに行っていた関係から、いろんな宴会をかいま見る機会があったりして、私は金波さんの巧妙な話術や奇術、曲藝、手品を屡々見聞きした。
明治の末期のことであるから、素より「漫談」とか「藝能」などいう言葉はなかったが、金波さんのそれは明らかに後世藝能界でそれヾ一つのジャンルとして發達した本格的なものである。
而も初期の司郎、夢声、金梧郎を思うとき、当時の金波の藝は一歩も譲っていなかったし、たった一人で、こんなにも廣い藝域を身につけている人は今以て現れていない。
返すヾも惜しいと思うのは、先覚者金波は二十年か三十年早く生れ過ぎたことである。お鯉さんについては、多く書くだけ野暮であろう。
たゞ然し、かつて名妓の譽を恣にし、歌手としては日本の第一人者、今は各方面に大御所的貫祿を示していること、素よりお鯉さんの天分や努力は言うまでもないが、同時に父子二代に亘る血を思わない訳には行かない。
パイオニア金波は不幸不發に終ったが、その大事なものがそっくりお鯉さんに傳わってくれた。あの藝術的素質、優れた感受性、典雅なボン・サンス煥發する才氣、スケールの大、これらは総て父の血の見事な開花ではあるまいか。
金波さんは地下でもう永い間、あの童顔の目を細めていることであろう。唯一つ、私の最初の師匠の娘であるのに、画をかゝぬことだけが璧に瑾、不肖の子である。
=ずっと前に、お鯉さんご自慢の大福帳に、これと同じようなことを書いたことがある。それを戦災でなくしたからと、請われて今度これを書いたが、それから廿六七年も經つのに、不思議とその時の文章をまざヾと思い出した。=
昭和卅六年春 伊原宇三郎(印)(印)